時代の最先端を行く都バス車両の歴史(1920~1930年代)

2017年10月04日

時代の最先端を行く都バス車両の歴史(1920~1930年代)

時代の最先端を行く都バス車両の歴史(1920~1930年代)

首都東京の公共交通機関として多くの人々の生活を支える都営バス。そこで使用される時代の最先端を行く車両の歴史をシリーズでご紹介していきます。まずは創生期となる1920~1930年代のお話です。

始まりは「円太郎バス」と揶揄されたTT型フォード

都営バスは東京都がまだ「東京市」だった1924年(大正13年)1月18日に、前年の9月1日に発生した関東大震災で大打撃を受けた路面電車(東京市電)の代替輸送機関としてスタートしました。初代の市バス車両は当時アメリカで大量生産されていた小型トラックの「TT型フォード」で、それに雨除けの幌を取り付けて、全長4,623mm、全幅1,422mm、全高2,288mm、乗車定員11人のバスとしたのです。

TT型フォードの床には3つのペダルがあって、左がクラッチ、中央がリバース(後進)ギア、右がブレーキとなっており、アクセルはハンドル下のレバーで操作する特殊な機構のものでした。さらに腰高なシルエットは「円太郎馬車」と呼ばれた明治時代の乗合馬車に似ており、乗り心地も馬車並みに酷く、人々は前近代的なその姿に皮肉を込めて「円太郎バス」と揶揄したのです。その代わり価格は幌を付けた完成車体で1,800円と、すでに都内で営業していた民営の東京乗合自動車(青バス)の車両価格が1万2,000円であったのに比べて破格の安さでありました。

事業の本格化に向けて輸入車を次々に増備

この円太郎バスと呼ばれたTT型フォードも、開業同年の7月に市バス事業の恒久的な継続が決定されると改造が施され、天井の高い木製のきちんとした車室となって乗車定員は15人と増え、利用者から好評を得るようになりました。ここから市バスは事業の本格化に向けて車両の増備を行っていきます。

まず1925年(大正14年)に乗車定員17名のTT型フォード100台と、全長5,871mm、全幅1,900mm、全高2,477mm、乗車定員24人(座席定員13人)の「CPウーズレー」が40台購入され、1927年(昭和2年)にはTT型フォード、CPウーズレーに加えて、米国ゼネラルモータース社の「LO型シボレー(乗車定員20人/座席定員11人)」と、英国ガーフォード社の「KBガーフォード(乗車定員34人/座席定員20人)」を導入、1928年(昭和3年)にはTT型から切り替わった「AA型フォード」、1929年(昭和4年)には「DC型レオ」、1930年(昭和5年)には「GNN型スチュードベーカー」などのアメリカ車もラインアップされたのです。

国防上の思惑から開発された国産車への切り替え

1930年代になると戦時体制へ向かう陸軍や、商工省(現在の経済産業省の前身)の「軍用トラックの国産化を急ぎたい」という思惑から、日本の自動車メーカーによる国産車の生産と使用の動きが活発化していきます。1933年(昭和8年)には完全国産の標準形式自動車が完成し、「いすゞ」と名付けられました。

いすゞのスペックは、エンジン型式をX型と呼び、6気筒、排気量4,390cc、毎分1,500回転、45馬力、トラックはT、バスはBとして、ホイールベース(前輪軸と後輪軸との距離)が3.5mのものを35型、4.0mのものを40型、4.5mのものを45型とし、市バスは1933年(昭和8年)から1937年(昭和12年)9月までの間に「いすゞBX40型」の車両を109台購入しました。そして1936年(昭和11年)をもって輸入車の購入はなくなったのです。

燃料統制によるガソリン不足から「木炭バス」を開発

1930年代も後半になると、次第に戦時体制が強化されていきます。日中戦争が勃発した1937年(昭和12年)以降は燃料統制が行われ、一般市民のために貴重な石油(ガソリン)を使用することは非常に難しい状況となりました。そこで登場したのが、木炭を燃料とした「木炭自動車」です。

木炭自動車は木炭を不完全燃焼させて一酸化炭素を主成分とする可燃性の木炭ガスを発生させ、そこに空気と水蒸気を送り込むことでより爆発力の強い水素(水性ガス)を発生させるもので、市バスは1938年(昭和13年)から営業運転に「木炭バス」を導入します。そして翌1939年(昭和14年)には水素発生率と耐久性の高い「東京市電式木炭ガス発生炉」を独自に開発、同年末時点で728台もの木炭バスを保有することになりました。