都バス今昔物語その1(1920~1930年代)

2017年12月20日

都バス今昔物語その1(1920~1930年代)

都バス今昔物語その1(1920~1930年代)

関東大震災によって壊滅的被害を受けた市電の代替として開業した「東京市営バス」。存続決定後は好調に事業規模を拡大していったものの、交通事業者統合の案件で他方面と激しく対立します。

関東大震災によって市電が壊滅

1923年(大正12年)9月1日午前11時58分、相模湾北西沖80kmを震源としたマグニチュード7.9の関東大震災が東京を襲い、公共交通の主役として150kmを超える路線を有していた路面電車の東京市電は壊滅的な被害を受けました。そこで市電を運営していた東京市電気局は、当時の東京市民の生活の足を確保するために、暫定的な代替運行として開業が比較的容易な乗合バスの運行を計画します。

震災翌年に期間限定の市電代替として開業

1923年10月、東京市は翌年の7月末までという条件付きで警視庁から乗合バスの事業免許を受け、当時アメリカで大量生産されていたTT型フォードを1,000台(最終的には800台)発注、市電乗務員から募った志願者を陸軍などで研修させて運転手としました。そして1924年(大正13年)1月18日より巣鴨橋~東京駅間と中渋谷~東京駅間の2系統で運行を開始、800台の車両が揃った同年3月16日には20系統、148kmの営業運行が実施されたのです。

恒久運行の決定で事業規模を拡大

市電なき東京で開業した東京市営バスは公共交通の役割を大いに果たし、開業直後の4月には1日の平均乗客数54,000人と、当初の予想をはるかに上回る結果を叩き出しました。市電の復旧に目処が付いた後も、市民から好評を得ていたことと、車両や車庫への投資、雇用した従業員の処遇などの観点から、東京市は市バスの恒久運行を決定します。

当初は9系統、車両数320台に規模を縮小しましたが、赤襟嬢と呼ばれた女性車掌の乗務や7時~22時までの終日運転というサービスアップが功を奏し、1929年(昭和4年)度には21系統、112kmと開業年度レベルまで拡大、1日の平均乗客数は119,000人にまで達しました。世界恐慌の荒波に巻き込まれ、1930年(昭和5年)から1931年(昭和6年)には日本経済が昭和恐慌と呼ばれる危機的な状況に陥った際も、市電や民営バスとの協調などで乗り切り、1935年(昭和10年)には1日平均乗客数が216,000人となります。

陸上交通事業調整法の施行で対立する経営統合案

1937年(昭和12年)7月7日、盧溝橋で日本軍と中国軍の衝突事件が起き、それを発端に日中戦争が開戦します。そのような中、公共交通の利便性が低下することを防ぐために交通事業者の統合を法制化した陸上交通事業調整法が1938年(昭和13年)に施行されました。本格的な戦時体制に向けての物資統制を可能とする狙いもあったと考えられる法律でしたが、全国に先駆けて都心(東京駅)から1時間程度で行ける30km~40㎞の範囲の統合調整が検討されることとなります。

統合後の経営形態については、鉄道省(戦後における運輸省、国土交通省、日本国有鉄道、JRグループの前身)が立案した官公私合同特殊会社案が多くの賛同を得ました。しかし、東京市は「市内の交通は市民の手によって経営されるべきものだ」として市有市営案を提出し、真っ向から反対することになります。この東京市の強硬姿勢によって2つの経営統合案は激しく対立し、その合意は1940年(昭和15年)12月までかかることとなったのです。