都バス今昔物語その2(1940年代)

2017年12月22日

都バス今昔物語その2(1940年代)

都バス今昔物語その2(1940年代)

1945年の終戦を境として前半は戦時体制での悪戦苦闘、後半は戦後復興に向けた輸送力の回復と、1940年代の都バスは公共交通としての使命を果たすために様々な困難と闘い続けました。

東京中心部の乗合バス事業を独占

2つの経営統合案が対立し、1年以上に渡って膠着状態が続いていた東京市とその周辺の交通事業調整でしたが、1940年(昭和15年)12月に鉄道省、東京市、私鉄3者の利害を調整した地域別交通調整案が作成され、ついに合意を迎えました。これによって東京市は東京中心部の乗合バス事業を独占することとなり、1942年(昭和17年)2月1日までに市内にあった8つのバス会社の全線もしくは一部路線を買収します。その路線延長は177.3km、車両数は984台に及ぶものでした。

木炭バスの導入と戦時需要の最優先化

しかし、時代は本格的な戦時体制へ突入しており、アメリカは日本への石油輸出を全面的に禁止していました。80%を輸入に頼っていた石油は軍事物資として統制され、市バスは深刻な燃料不足に陥ります。そこで導入されたのが木炭バスでした。国内で自給できる木炭をガソリンの代わりの燃料とすることで、石油の民間消費を抑えながら公共交通の役割を維持したのです。市バスでは独自に市電式木炭ガス発生炉を開発し、多くの保有車両に取り付けていきました。

1941年(昭和16年)に太平洋戦争の火ぶたが切られると、路線の休止や短縮、運行時間の調整などが行われ、市街地から離れたところに建設された軍需工場への工員輸送バスの運行や、生活物資の輸送を目的に200台のバス車両がトラックに改造されました。戦局の拡大につれて運転手を始めとする男性職員が招集されると、その穴埋めは女性車掌が担ったのです。

空襲による被災、そして復興に向けた輸送力回復

1943年(昭和18年)7月1日、戦時体制の強化による首都行政の一元化を図るために東京府と東京市は廃止され、東京都となりました。東京市電気局も東京都交通局に名称が変わり、東京市営バスは東京都営バス(都バス)に変更されます。

しかし、戦局は悪化の一途をたどり、1945年(昭和20年)3月10日の東京大空襲では東京市街地の東半部、なんと東京35区(当時)の4割近くにあたる約41平方キロメートルが一晩のうちに焼け野原と化しました。都バスの被害も著しく、その後も度重なる空襲で車庫は破壊され、1942年時点で1,981台あった車両が終戦時には960台まで減少し、その中でも動かせるものは196台、営業運行に耐えられるものとなればたったの70台ほどになってしまったのです。

同じ東京都交通局が運営する路面電車の都電も被害を受け、12ヶ所の営業所と602両の電車が被災、重要な軌道(線路)もいたるところで使えなくなってしまいました。それでも戦争が終わったことで、疎開先からの帰京、復員軍人や引揚者の帰国などで東京の人口は増え続け、交通機関の輸送力回復が急務となっていきます。1947年(昭和22年)、東京都は米軍からガソリンの配給が付いた軍用トラックGMC車400台の払い下げを受け、それをバスに改造して急増する交通需要に対応しました。同時にトレーラーバスや、ガソリンよりも手に入りやすい軽油を燃料としたディーゼルエンジン車を採用し、戦後復興に向けた大量輸送に貢献していきます。

都心と郊外を結ぶ民営バスとの相互乗り入れ

終戦後の人口増加は都心部よりも郊外のほうが顕著でした。疎開していた人々の定住もありましたし、空襲によって旧市内の下町エリアは焦土と化していましたから、人々は郊外へと移り住んだのです。当然、都心と郊外を結ぶ交通手段の需要が高まり、1947年(昭和22年)6月から都バスと民営バス4社7系統104.6kmの、都心と郊外を結ぶ直通相互乗り入れ運行が開始されました。ただ、かつての交通事業調整によって都バスは東京中心部、民営バスは東京郊外と事実上の営業エリアが定められていたため、互いのテリトリーに進出することは営業権的にも簡単ではありませんでした。それが実現できたのは、進駐していたGHQ(連合国最高司令官総司令部)の圧力によるところが大きかったようです。

相互乗り入れだけでなく、都バスは独自の都心と郊外を結ぶ長距離路線も開拓しました。現在も都バス最長路線として君臨する梅70系統(路線距離31.8km)などは、1949年(昭和24年)8月に301系統として荻窪~青梅間39.7kmで開通しています。

なお、戦前の経営統合によって都バスが有していた遊覧バス(観光バス)事業は、1948年(昭和23年)に東京都も出資して設立された新日本観光株式会社に譲渡されました。この新日本観光株式会社は1963年(昭和38年)に社名を改称して、その名を株式会社はとバスとしています。そう、あの東京観光で有名なはとバスは、都バスおよび東京都と深いつながりがあったのですね。