都バス今昔物語その3(1950年代)

2017年12月27日

都バス今昔物語その3(1950年代)

都バス今昔物語その3(1950年代)

1950年代はいまだ石油不足であったため、都バスは電気を動力としたトロリーバスを開業します。そして通常路線の拡大も続き、黄金時代を迎えた都バスの経営規模は大きく躍進したのでしたが...。

トロリーバスの開業

終戦から5年が経ち、1950年代に入ると復興の勢いは加速し始めます。さらに復員軍人および引揚者の帰国もあって東京の人口は増え続け、それに比例して交通需要は高まっていきました。しかし、原油の輸入は1950年(昭和25年)になってようやく認められたという状況でしたから、いまだ石油供給の絶対量は不足しており、価格も高騰していました。

そこで目をつけたのが、経済活動が復興していないおかげで余裕のあった水力発電による電気でした。ただし、路面電車(都電)は破壊されてしまった線路の敷設に莫大な費用がかかるため、道路上に張られた電線(架線)から電気を取り込んで、それを動力として走るトロリーバスが採用されます。

1952年(昭和27年)5月、上野公園~今井橋15.54kmのトロリーバス101系統が開業され、1956年(昭和31年)9月には102系統(池袋駅前~品川駅前17.29km)が全通、続いて1957年(昭和32年)1月に103系統(池袋駅前~亀戸駅前14.92km)、1958年(昭和33年)8月に104系統(池袋駅前~浅草雷門13.26km)と、4つのトロリーバス路線が開業していきます。

トロリーバス運転士と車掌の育成

トロリーバスを日本語に訳すと「無軌条電車」、つまり「レールのない電車」となります。形はバスであっても分類としては鉄道となり、集電装置(トロリーポール)を架線に当てて走行するため、バスとはまた違う運転技術が求められました。もちろん専用の運転免許も必要です。そのため都バスを運営する東京都交通局はバスと同じ大型二種免許所持者を採用して、青山にあった教習所で約1ヶ月間の訓練を行い、無軌条電車運転免許試験に合格した者をトロリーバス運転士として乗務させました。

トロリーバスの車掌は男性が採用されました。当時の都バスは女性車掌が多かったのですが、トロリーバスは様々な要因でトロリーポールの上げ下げを車掌が行わなければならなかったため、男性が採用されたのだと思われます。車掌もまた青山の教習所で訓練を受け、トロリーバスはもちろん都バスや都電の路線網から停留所まで全てを叩き込まれました。東京の観光案内ができるほどの知識もあったそうです。

黄金時代を迎え拡大する路線網

1950年代の日本は半ばから高度経済成長期に突入したものの、まだ一般庶民が普通に自家用車を持てるような時代ではなく、現在では網の目のように張り巡らされている東京の地下鉄路線も、浅草から上野~銀座~新橋~赤坂~青山を経由して渋谷までを結ぶ「銀座線」と、池袋駅から東京駅を経て新宿駅まで山手線の内側をU字形に走行する「丸ノ内線」の2本しかありませんでした。

そのため、都バスは都内の主要公共交通機関として路線のさらなる拡大を図り、通常路線に加えて明治神宮や浅草雷門、明治神宮などを循環する初詣バスや、明治座、新橋演芸場などの劇場と鉄道駅を結ぶ劇場バスなどを開設します。1954年(昭和29年)には、新日本観光株式会社(現:はとバス)に譲渡して手放していた観光バス事業を再び開始しています。

その結果、1956年(昭和31年)度の都バスの1日平均の経営規模は、営業キロ733.2km(1946年度110.5km)、使用車両数928.5台(同108.6台)、運転キロ数13万4845km(同1万7501km)、乗客数63万4170人(同11万337人)と大きく躍進します。ここに都バスは黄金時代を迎えたのでした。

忍び寄る交通局の財政悪化

このように大幅に都バスの規模が拡大した1950年代でしたが、運営する東京都交通局の経営状態は徐々に悪くなり、後半になるに従って黒字額は急激に減少していきます。これは営業エリアの問題で人口の郊外移転に対応できなかったことや、高度経済成長期を迎えたことで高騰する人件費を含めた輸送コストの増大、さらには1956年に工事を開始した都営地下鉄1号線(現:都営浅草線)の建設によるところが大きいと考えられます。地下鉄の建設費用は財源の90%以上を債権の発行で調達しており、利子の支払いは多額、しかし西馬込~押上までの全線が開通したのは1968年(昭和43年)で、回収するには時間がかかったのです。

そしてこの交通局の財政悪化状況は、1960年代に入るとますます顕著なものとなっていくのでした。